本の紹介  2019年9月25日|水曜日

『峠』 最後のサムライ 河井継之助記念館を訪ねて

幕末期、尊王攘夷運動から大政奉還、戊辰戦争に至るまでの時代の動きは、とても複雑です。

歴史の教科書では、そこの所を上澄みだけすくって、乾いた文章で記述されています。

 

越後の長岡藩 家老 河井継之助。

戊辰戦争の際、薩摩長州を中心とする明治新政府軍(官軍)が迫り来る中、長岡藩だけは武装中立をかかげました。

隣の会津藩は、薩長に徹底抗戦。

河井継之助は、長岡藩が生き延びる方法を考え抜きます。

 

教養堂の棚からひとつかみ、今回はこちら。

 

『峠』 司馬遼太郎 著   新潮文庫

 

上巻では、河井継之助の江戸での学問の日々をゆっくり丹念に描きます。

 

中巻では、桜田門外の変をはさんで、時代が風雲急を告げ、継之助は来たる激動の時代をどう乗り越えるか思考します。特に、備中松山藩家老の山田方谷のもとで勉強する場面は印象的です。また横浜ではスイスやフランスの商人たちとの交流が描かれます。この時、運命の出会いともいえる最新式の連射砲、ガトリング砲が登場します。

 

下巻では、いよいよ迫り来る官軍との間で、武装中立の夢が叶わず、北越戦争へとなだれ込みます。武士のみならず、長岡の庶民をも巻き込んだ壮絶な戦争が描かれます。

 

官軍との戦いを前に、継之助は自問します。

 

(作中より)

「よろしく公論を百年の後に俟って玉砕せんのみ」

 

人間とは何か、ということを、時勢に驕った官軍どもに知らしめてやらねばならないと考えている。驕りたかぶったあげく、相手を虫けらにように思うに至っている官軍や新政府の連中に、いじめぬかれた虫けらというものが、どのような性根をもち、どのような力を発揮するものかをとくと思い知らしめてやらねばならない。

 

 

 

河井継之助記念館は2つあります。

1つは、継之助の地元、新潟県長岡市。

すぐ隣に、山本五十六記念館もあります。

 

継之助が日本に3台しかなかったうちの2台を調達したガトリング砲のモデル。

長岡市の河井継之助記念館にて。

 

 

もう1つは、継之助が負傷して長岡から会津へ退却する途中、会津若松へ行く前の只見の山中。

長岡から会津へは険しい山中を越すため、八十里越とよばれています。

 

このような山々を越していった継之助。

 

その山中の塩沢という地で亡くなります。

この場所に、記念館があります。

 

こちらの福島県会津若松市只見町塩沢の「河井継之助記念館」の方は、静かな川沿いにあり、継之助終焉の地として変わらない風景を残しています。

落ち着いた雰囲気の中で、継之助の気配を感じ取ることができます。

 

私もお参りしました。

今でこそ、このように立札がありますが、墓石には何も書いてありません。

墓でさえも、官軍側に知られないようするためだったと言われています。

 

 

 

戊辰戦争から150年余り。

来年、本書『峠』を原作とした映画が上映されます。

継之助役は、役所広司さんが演じます。

 

河井継之助の勉強というものは、常にどう自分が生きるか、天下に対して恥じない道を正々堂々と歩めるか、を考え抜くことに尽きました。

当時の世情、幕藩体制、新政府の新しい時代という枠組みと、長岡藩藩士としての自分の立場、それらを論理的に考え抜いた結果が、長岡藩の一藩中立という、幕藩体制250藩中でも極めて独自の選択になりました。

こういう選択をした人がいたということは、日本の歴史上、何か救いでもあるように思えます。

 

 

略歴

1827年1月1日

長岡城下に生まれる

 

1842年 元服 

陽明学を学ぶ。

 

1852年 江戸遊歴 

斎藤拙堂に師事

佐久間象山に師事

 

1853年

古賀謹一郎の久敬舎に入塾

 

1859年

再び久敬舎に入塾

備中松山藩(岡山県高梁市)の家老 山田方谷に師事。

 

1868年1月

戊辰戦争勃発

 

1868年4月

長岡藩・軍事総督に就任

 

1868年5月

小千谷会談決裂、新政府軍と開戦。

 

1868年8月16日

会津塩沢で没する。

42歳。

 

 

 

司馬遼太郎作品としては、以下の作品もブログでこれまで取り上げてきました。

 

『竜馬がゆく』

坂本竜馬

 

『鬼謀の人・花神』

大村益次郎

 

いろいろな見方ができる幕末・明治維新として、この3作品を読むと、薩長側、幕府側と立体的に捉えることができると思います。

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