本の紹介  2018年10月4日|木曜日

『鬼謀の人』~大村益次郎〜

明治維新から150年。

西郷隆盛と勝海舟との会談から、江戸無血開城を終えると、彰義隊を殲滅する上野戦争へと時代は動きます。 

ここから、西郷さんもびっくりの「空気を読まない男」として登場するのが、長州藩の懐刀「大村益次郎」です。

いきなり明治新政府の参謀会議に現れて、矢継ぎ早に軍略の指示を出していきます。

薩摩藩の人たちは、さぞ驚いたことでしょう。

「あれは、いったい誰なんだ?」

 

 

教養堂のほんの紹介、今回はこちら。

 

『人斬り以蔵』の短編集に収められている『鬼謀の人』  司馬遼太郎 著  新潮文庫

 

 

 

 

 

 

『花神』 司馬遼太郎 著  新潮文庫

 

短編なら『鬼謀の人』。

長編なら『花神』です。

どちらも読みごたえあります。

 

大村益次郎に見る、学問の応用。

江戸から明治に変わるときに、旧幕府軍と薩摩・長州を中心とする新政府軍が戊辰戦争を戦います。

その時の新政府軍の総司令官が大村益次郎です。

 

彼は若い頃、大分の「咸宜園」という塾で漢文を習い、大阪の「適塾」で西洋の学問「蘭学」、そして医学を学びました。

 

すぐに役立たない基礎学問がやがて役に立つ

また、これからは英語が主流になると見るや、わざわざ横浜のヘボン塾に通いました。

ローマ字のヘボン式を考案した、ジェームズ・カーティス・ヘボン(ヘップバーン)から直接習います。


四国の宇和島藩に招かれたときには、いきなり「蒸気船」の建造を依頼されます。

その頃は、黒船来航以来、国産の蒸気船を早く作りたいという藩がたくさんありました。

益次郎は、外国の設計図だけを頼りに、独学で作ってしまいました。

漢学、蘭学、医学の基礎理論をみっちり習得していたので、たちどころに応用が効いたのです。

 

進路選択

益次郎が江戸で塾(鳩居堂)を開いている時に、長州藩のリーダー木戸孝允(桂小五郎)から、ぜひ郷里のために働いてほしい、とスカウトされます。

 

その時の益次郎は江戸幕府の学問所の教授にあって、安泰な身分でした。

しかし長州藩に帰ると、給料は減りますし、身分も格下げになります。

普通は安定した生活が約束されている江戸に残るのですが、益次郎は長州藩を選びました。

 

もし、江戸に残っていたら、その後の立場は逆転。幕府側になっていたことでしょう。

長州藩を選んだ益次郎はその後、長州藩の参謀として、時代の表舞台に出てきます。

安政の大獄で処刑された長州藩士 吉田松陰が亡くなった後に、ちょうど入れ替わるように登場するのです。
 

相手が考える論理を読み解く

第二次長州征伐では、戦闘を指揮した益次郎は、幕府軍と戦った時に相手の出方をほぼ正確に予測していました。

これには、歴史の知識と漢文の素養が役に立ちました。

 

例えば、元禄時代の赤穂浪士の史実を用いて、各藩の動きを見事に読み切り、圧倒的劣勢を跳ね返して緒戦に勝利しました。

江戸の太平時代に硬直化した各藩の組織論理など、益次郎は完全に見抜いていたのでした。

歴史を学ぶことで人々の動きが予測でき、読解力を養うことで、人の内なる論理をつかむことができたのです。

 

そして、益次郎は兵器の物量と、味方の戦力を分析して、合理的な戦法を組み立てました。

戦国時代から変わらぬ武士道にもとづく旧来の戦法を否定し、ナポレオン以来の近代的な用兵によって幕府軍を圧倒したのです。
これには、物理と数学の知識が役に立ちました。

物理は、物事を正確に分析する力が養われ、数学は理論的に物事を整理することに発揮されるからです。

 

バランスの良い学問が応用力を発揮

昨今、文系・理系、と分けて考えてしまいがちですが、分けずにバランスの取れた勉強は、物事を立体的に見ることができます。

どちらも必要なのです。
 
さて、時は1868年。

新政府軍が江戸に入り、江戸城を無血開城させました。

しかし、いまだ江戸市中には、旧幕府軍の残党「彰義隊」がおり、反乱を起こさんばかりの状態でした。
何とかせねばならないという時に、益次郎は綿密に計画を立てます。

戦争になった時に、いかに庶民が戦火に巻き込まれないか、無事に平定できるかを考えました。

 

勝ちを確信してから戦う

そこで、大火事にならないように、あえて梅雨の時期まで待ち、江戸市中にいる残党を上野一カ所だけに集めるように工作をして、一気に鎮められるようにしました。
結果、「上野戦争」と呼ばれる戦いは、一日で政府軍の勝利に終わります。

益次郎は終わる時刻も正確に予測していました。
実行できる計画を念入りに立てる。

益次郎の中では、戦う前から、勝つことが分かっていたかのようです。

 

さて、大村益次郎にも最期の時がやってきます。

彼は次世代のリーダーを作るために、年若い西園寺公望を教育します。

やがてくる明治政府内の権力闘争を見越して、若い世代に大局観を養う教育を始めたのでした。

 

そして西南戦争を予期して準備を始めた矢先、大阪で暗殺されてしまいました。

唐突の登場と、突然の退場。

 

 

略歴
1824年 長州藩(今の山口県)に医者の息子として生まれる。
1843年 大分の広瀬淡窓の塾、「咸宜園」に入る。
1846年 大阪の緒方洪庵の塾、「適塾」に入り、蘭学を勉強して塾頭になる。
1850年 故郷に帰って、医者になるも、はやらず。
1853年 伊予、宇和島藩に渡り、砲台と蒸気船を独学で作る。
1855年 シーボルトの娘イネに蘭学を教える。
1856年 江戸で塾「鳩居堂」開塾。
1858年 木戸孝允(桂小五郎)と知り合う。
1860年 長州藩士となる。
1866年 第二次長州征伐で幕府軍に勝利。
1868年 官軍の総司令官として戊辰戦争に勝利する。
1869年 大阪で暗殺される。

 

 

 

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