こんな話  2020年10月12日|月曜日

長野県小諸市 小諸義塾を訪ねて

定期的に教育についての先人達の足跡をたどり、教養堂の進むべき道を探っております。

 

 

夏の終わりに、長野県小諸市 旧小諸義塾の記念館を訪ねました。

諏訪湖から山越えし、上田市に出て、千曲川に沿って小諸に入りました。

 

 

小諸義塾は、1893年(明治26年)に小諸城址に開校、1906年(明治39年)に閉校。

記念館は旧校舎をそのまま保存したもので当時がしのばれます。

 

塾長の木村熊二が開き、文豪 島崎藤村も一時期、英語と国語の教師として指導にあたりました。

 

小諸義塾記念館

記念館には資料が展示されており、教科書や実験器具が見られました。

 

幅広い教科を少人数の教師で教えており、自由なカリキュラムがうかがえました。

教師に学習内容がゆだねられおり、学生とともに授業を作り上げていくような感じだったのではないでしょうか。

 

教科書が展示されていましたが、レベルはかなり高いと推察します。

例えば、英語は基礎文法もやりますが、学年があがると原書を使って、文学作品を読んでいくようなものでした。

島崎藤村が教えていたはずですが、どんな授業だったのでしょうか。

 

文系科目、理系科目はもとより、図画や体操もあり幅広い教育が行われていました。

 

 

【塾長 木村熊二先生の略歴】

 

1845年(弘化2年)

出石藩 但馬(兵庫県北部)に生まれます。

 

1854年(安政元年)

江戸に出て昌平坂学問所に入ります。

ここで、佐藤一斎や安積艮斎に学びます。

 

幕府の役人となり、幕臣 勝海舟の下で働き、京都では新撰組の近藤勇とも働きます。

戊辰戦争を経て、江戸幕府の瓦解とともに役職を終えます。

 

この頃に、キリスト教徒になります。

 

1870年(明治3年)

アメリカに渡り、キリスト教神学校に入ります。

その後、牧師の資格を得ます。

 

1885年(明治18年)

帰国後、牧師として働く中、女子教育にも力を入れ、明治女学校を創立、校長となります。

 

1893年(明治26年)

長野県小諸の青年から請われ、小諸義塾を創立します。

 

小諸地域の文化・産業の開発にも尽力

島崎藤村らの優秀な教師陣をそろえ学問だけでなく、芸術や体育教育も行う全人教育を行います。

その後、小諸義塾は旧制中学校になります。

 

1906年(明治39年)

日露戦争の財政難を受け、閉校。

 

1927年(昭和2年)

逝去 享年83歳。 

 

 

小諸城下

小諸市は千曲川に沿った街道沿いにあり、

千軍万馬往来の戦国時代は、おそらく武田信玄麾下の騎馬武者が風林火山の旗をなびかせて闊歩していたであろうと想像します。

 

小諸義塾があった明治半ば頃も自然豊かな静かな街だったようです。

時折通る蒸気機関車の汽笛が小諸の城下町に響いていたことでしょう。

今でも、そんな趣が至る所にあります。

 

小諸城址

小諸城は城下町より低い位置にあり、穴城としても貴重です。

城下町は歩いても知れていて、手に届くような距離です。

ドイツのロマンチック街道沿いのノルトリンゲンのような街です。

 

自由な気風の教育

こんな落ち着いたたたずまいの城下町で行われた小諸義塾の教育。

塾長 木村熊二は、人物の育成をかかげ、人格・気風を育てることが人間教育の本分としました。

個性的で自由な教育が行われましたが、日露戦争を境に閉校に追い込まれました。

自由な教育と当時の国家の方針や社会風潮、そして財政難に抗うことができませんでした。

小諸義塾 13年の歴史。

 

教育というものは、時代に翻弄されることも多いのだと教えられます。

小諸義塾の学び舎や今に残っておりますが、そこに通った学生の息遣いや教師たちの教え、そこで行われた教育は、今はしずかに時代の地層の中にあります。

 

 

 

惜別の歌

記念館の脇に、教師だった島崎藤村の有名な詩の石碑がありました。

後に曲もつけられ、歌になりました。

まさに「別れ」の歌。

 

 

惜別(せきべつ)の歌

 

1

遠き別れに 耐えかねて
この高殿に 登るかな
悲しむなかれ 我が友よ
旅の衣を ととのえよ

 

2

別れと言えば 昔より
この人の世の 常なるを
流るる水を 眺むれば
夢はずかしき 涙かな

 

3

君がさやけき 目の色も
君くれないの くちびるも
君がみどりの 黒髪も
たいつか見ん この別れ

 

4

君がやさしき なぐさめも
君が楽しき 歌声も
君が心の 琴の音も
またいつか聞かん この別れ

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