本の紹介  2017年11月24日|金曜日

『罪と罰」

『罪と罰』 ドストエフスキー著 新潮文庫

 

読解:やや難(登場人物は紙に関係図を書きながら) 

一言:上・下巻の長編大作。忍耐力も必要だが、読後は達成感を味わえる。

 

世に、「ドストエフスキー体験」というのがある。読後に頭を殴られるような体験、と私は認識している。そして後に引く。

 

 

私はこれを最初に読んだ時が、高校1年生の2月だった。なぜか水ぼうそうにかかってしまい、高校生という遅さからか、1週間寝込む羽目になった。家から出ることも許されず、かゆみと微熱が続いた。布団で寝るしかないが、とにかく暇で仕方がない。

と、いうことでロシア文学の最高峰に挑むことにしたのだ。

『罪と罰』の前半部はとにかく主人公の悪夢の描写が延々と続く。私は自身の体調とオーバーラップして、自分の夢にまでその主人公の夢が出てきた。

上巻を何とか読み終えたときは、まだ下巻があるのかと思うとうんざりした。

しかし、次第に主人公が追い詰められていく様子は推理小説を読む感覚もあった。

下巻のラストは圧巻だった。

 

私が次に読むのは20歳だった。1回目の16歳のときは消化不良だった。しかし、20歳の時は違った。一字一句、頭に入ってきた。さらに、ペテルブルクの酒場の描写などは妙にリアルに感じた。また、それまでにキリスト教についての知識が増えていたために理解が進んだ。

そう、『罪と罰』はキリスト教を把握していないと苦しいかもしれない。

林修先生とパックンが「罪と罰」について対談した時に、パックンがいとも簡単にキリスト教と本書を身近に結びつけて話していたので、林先生はキリスト教文化圏の人の理解にはかなわない、と白旗を上げていた。

 

その後、新潮選書から出された「謎解き 罪と罰」を読んでさらに理解が進んだ。会話一つをとっても、キリスト教のアナロジー(類比)やオマージュが隠されているのである。だから、私が本の読み方の基礎を身につけたのは、この本のおかげである。

 

手塚治虫の初期の漫画にも「罪と罰」がある。忠実に漫画化されている。

こちらも名作。非常によく捉えられていてイメージがしやすい。

何より主人公の感情がすごく伝わる。

「メトロポリス」などの路線の延長線上にある漫画。

 

もう一つ。江戸川乱歩の初期の探偵小説に『心理試験』がある。これには若き頃の書生風情の明智小五郎が登場するのだが、このプロット(筋書)はまさに「罪と罰」を下敷きにしている。だから、日本に翻案すると、なるほどこうなるのか、ということが分かる。そして乱歩のすごい所は、「罪と罰」が非常に完成度の高い推理小説足りえることを見抜いていたことだった。

 

さらにもう一つ。「青年」という単語は、ドストエフスキーから始まるという説がある。悩める青年像は近代特有のものである。

森鷗外の「青年」という小説にも、「罪と罰」の登場人物のような大学生、青年が出てくる。どこかで面影があるように感じる。

ちなみに今、「青年」という言葉は朽ちかかっているような気がする。「青年」はもういないのかもしれない。それは情報化と関連がある気がする。「青年」というのは現実と自己のギャップに起こる内省期だと考えるが、スマホがあると常に世界と直結しているので内省する暇がない。

近代に誕生した「青年」は現代を経て高度情報社会に至るとついに絶滅してしまったのかもしれない。

 

『罪と罰』を40代になった今はもう読めない。お腹一杯、という言い方もあるし、あの頃の鬱屈とした感覚を味わいたくないとも言える。しかし、10代の学生、そして「青年」には読め、と言いたい。

ドストエフスキー体験はした方が良いからだ。

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