こんな話  2022年1月8日|土曜日

「杉原千畝展」命のスギハラビザの実物公開

2021年12月23日から2022年1月9日まで、JR名古屋タカシマヤで開催。

 

『生誕120周年 杉原千畝展』

命のビザに刻まれた想い

千畝が発給した「ビザの実物」を公開

 

行ってまいりました。

「杉原千畝」は、今や歴史の教科書に載る日本が世界に真に誇ることのできる「人道の人」として、

日本のみならず世界史上においてたぐいまれなる人物です。

 

東京書籍 「新しい社会 歴史」2021年版から

現行の中学校の歴史教科書から抜粋。

 

 

杉原千畝さんは、岐阜県のお生まれ(1900年)で今年生誕120年です。

幼少期は岐阜で育ち、小学生半ばから愛知県に住みました。

 

旧制愛知五中(現在の瑞陵高校)のご卒業です。

旧制五中の卒業生には6年先輩に、あの江戸川乱歩もいます。

 

五中の同窓会の記念写真に、

着流しで腕をくんだ貫禄たっぷりの江戸川乱歩と、

スーツ姿にオールバックの洋装の若き外交官 杉原千畝が一緒に写っていました!

 

しかもその写真は、乱歩の所有物からお借りしたものだそうです。

「五中同窓会」と乱歩の走り書きのある写真です。

乱歩と千畝の邂逅。

 

 

この展示は貴重なものばかりでした。(展示品の撮影は禁止)

 

例えば、現存する「命のビザ」の実物を数点、複製も合わせると多数が展示されています。

また後に外務省に提示した、ビザ発給したユダヤ人家族の名簿をタイプライターで作成したもの(展示は複製)も見ることができました。

 

その当時だけでも膨大なユダヤ人に次々とビザを発給したことがその名簿からもわかります。

約6,000人の命を救いました。

現在のその子孫も含めると、有に10万人、いやそれ以上の命を助けたことにもなります。

 

 

また、外務省の訓令に背いてビザを発給することになる前に、

外務大臣 松岡洋祐 宛に、ビザ発給に関する承諾を得るための外交公電を何回も打っています。

決して独断専行ではなく、まず本国の許可を頻繁に取ったことがわかります。

外交公電画のやりとりか実物で見ることができます。

 

外務省本省からは、型通りの「訓令順守セヨ」の文言だけ。

杓子定規の対応は今も変わっていないように感じます。

 

いや、そうであっても、しっかりこのように記録として保存されている分、現代からの検証ができます。

公文書が破棄されたり隠蔽されたりすることがあるのなら、それは歴史の改竄になります。

 

リトアニアの日本大使館はドイツのソ連侵攻に伴い閉鎖され、千畝一家も転勤します。

その後のチェコのプラハ総領事館に赴任した時もユダヤ人難民にビザを発給していたことを知ることができました。

 

千畝の当時の回想録からは

「本当の国益を考え、外務省の訓令に背いた」

「そして真の人道主義を考えた」

とあります。

真の外交官でもあり、真の教養人と言えるでしょう。

 

「教養とは何か?」

 

という問いにはいくつも答えることができます。

 

杉原千畝の行動は、

「教養とは何か?」

の答えの一つだと思います。

 

 

プラハを追われた千畝は、日独伊三国同盟の友邦国であるルーマニアの大使館に勤務します。

ここで、第二次世界大戦の終わりを迎えます。

ソ連の反撃からドイツ軍がルーマニアを撤退したので、

杉原一家はソ連の捕虜収容所に入ることになります。

 

ドイツ軍が撤退する中でも、ドイツ人将兵が、友邦国 日本 の大使館の杉原一家を案じ、ソ連軍の銃撃から身を挺して守ってくれたそうです。

ナチス党政権下でのドイツの中でも、日本人に対して差別せず、職務を全うしたドイツ軍人がいたということを知ることができました。

 

 

ちなみに展示では、

ビザを得たユダヤ人難民のその後も詳細に紹介をしています。

 

シベリア鉄道で一路、極東の港町 ウラジオストックへ。

そして日本海を船で渡り、敦賀へ。

敦賀で地元の人達に大歓迎を受け、その後、神戸、横浜へ。

そして太平洋を渡り、アメリカ、カナダ、パスレチナへ。

 

福井県敦賀にも、その時の様子が分かる記念館があります。

「人道の港 敦賀ムゼウム」です。

ぜひ、次の機会に訪れたいものです。

 

 

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